My Celibidache experiences.

Hideyasu Ohmi (ohmi at atesoft.advantest.co.jp)
Thu, 7 May 1998 15:59:55 +0900

近江@埼玉在住です。

先日、はじめて研究会のPrivate Concertに参加させて頂きました。みなさんの
熱きCelibidacheへの想いが話され、もう私の頭から消えそうになっていた、私の
Celibidache像が再び重い腰をあげて来たように感じました。
それは、やはり4月29日に研究会で見た”チェリビダッケ音楽を語る”を見て
からだったでしょうか、忘れていた何かが、私のなかで再び何かを主張し始めて
来たのです。

確か、はじめて名前を意識したのは、SchubertとBrucknerのSymphonyをFMで
聞いた、もう20年も前の事です。 いまだかって無い、音楽の喜びといったもの
が、ひしひしと伝わってくるのです。 Schubertは第5番、Bruckner
は第4番、”いったい誰の演奏なのだろう”と、思って、最後まで聞いて、はじめて
その指揮者の名前を聞きました。セルジュ・チェリビダッケという、妙に言いづらい
感触のなまえでしたが、メモをとって口でとなえながら、おぼえた記憶があります。
当時、シュトットガルトあたりのオケをよく指揮してたとおもいますが。しばらく、
して日本に来ることがわかりました。そうです、読売日響に客演できたのです。

チェリビダッケは、東洋哲学にも造詣深く、三島にある、黄ばく宗の禅寺に泊まったり
しており、健康管理のための菜食主義とか、日本趣味とか、当時取り沙汰されました。
しかし、なんと言っても、そこから生まれ出たものが 生き生きとしており、すっかり
聞き飽きたような楽曲でさえ、まるで初めて聞くような新鮮な曲に変わったことを
何度も経験しました。 いまでは、語り草になってしまった、BrahmsのSymphony No.4
は、素晴らしいものでした。 しかし、読売日響の方々は、いままで経験したことも
ない、もの凄い猛練習をしたということです。この年から、2ー3年は毎年、読売日響
に客演に来ていたと思います。わたしも、2度か、3度聞きに行った事をおぼえて
います。 Mozart Symphony No.41 ジュピターは 誰にも出来ない、品のある、
締まった演奏でした。レスピーギの”ローマの松”とか、Wagnerのトリスタンとイゾルデ
前奏曲と愛の死とか、それぞれ忘れがたく、これが本当にあの読売日響の音か?
と思わせるようなしなやかな、素晴らしい音色が出ていたのです。

その後、チェリビダッケは名門London Symphony Orchestra をつれて、Brahms Symphony
No.1をやりました。 そのとき、ドビッシーの夜想曲なども聞いたおぼえがあります。
それが、生で聞いた、チェリビダッケの音楽を聞いた最後のものでした。
それから先は、Muenchen Philで、最晩年思いきり自分の音楽をやってきたという様に
見えましたが。 残念なことに、わたしは一度も、チェリビダッケのBrucknerを聞くこと
は出来ませんでした。 それだけは、残念な気持ちがしております。

何回かの、凝縮された演奏会で教えられたことは、音楽はそこでつくっていくもの
だと言うような事を実感しました。 聴衆もふくめての、あるいは聴衆をも飲み込んだ
演奏会だったからです。オーケストラが自然に語りかけるのを待っているのか、それを
誘い出す力は凄いものがあったんでしょう。 そのように作られべくして、作られた
生の”もの”はけっして、複製には向かない一回性の消えてなくなる芸術だと、...

ジャズのEric Dorphy が 彼の最後のアルバム”Last Date" で自らの声を録音して、
これと、同質のことを、皮肉にも一番有名なレコードに残しました。

この様にして、思い出して、文字にして見ると、書いている本人も
考えなかった、意識下のことまで、整理されてくるという気はします。
また、文字にならないままに、もっと取って置きたいものも、あると思いますが。
それは、それで、心のなかで、熟成するまで待つということも必要な事だという気も
します。自然に自分から、ことばがでるにまかせて、

では。

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 Hideyasu Ohmi                E-mail: ohmi at atesoft.advantest.co.jp